近所

★手力雄神社「天石門別命神」

ちょっとまえに、「アラハバキ」かなと思って探索行ってきました。
 参考櫛磐窗命を祀る神社一覧

ほんとに近所です。
村の鎮守様っぽく、普通の村社のようで、
どうってこともなかったんですが、由緒書きだけ
撮ってきました(^^ゞ

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元は「水」の神さまのゆかりのような、気がします。
うちは水の都と言われるくらい、水郷の里です。
そのため、繊維業が発達し、たくさんの工場がありましたが、
バブル崩壊後の不況で、つぎつぎと海外へ工場を移転、
現在では廃れ見る影もなくその記憶すら薄れつつあります。


★ こちらも、すぐ近く 「阿蘇神社」 です。
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岐阜県羽島市  阿蘇神社
九州から移住した人々が肥後の阿蘇宮から分祀したということだそうです。
こちらも村社のよう、氏神というのかな・・・


熊本県の 阿蘇神社 肥後一宮
主神 「 健磐龍命 (タケイワタツノミコト) 」

 健磐龍命は健々しく岩が立つ状態を神格化した。また、水神・治水の神とみられ、立石信仰の健磐立が健磐龍に変化したとのこと。
今もなお活動を続ける阿蘇「山頂神社」のご神体は中岳火口そのもので、主神は健磐龍命ですが、水神・弥都波能売神(ミズハノメノカミ)との説もある。
また、世界人種を表わした五色の面を持つ「幣立神社」は健磐龍命・勅使の創始とされ、阿祖山皇大神宮の遥拝所があります。



★ 「阿遲加(あじか)神社」 ( 祭神は日本武尊 )
あと、写真はないのですが、おなじ羽島市足近町にある、阿遲加神社に行きました。
こちらも、じつは雨乞い、水の神様のようです。
境内の後には境川があり、木曽川の伏流水のようです。
古代の木曽川はこちらが主流として流れていたという話しも。

古代の交通(船旅)、海洋民の要所だったように思えます。


◇余談ですが、
もう少し川を下ると、木曾三川公園があり、むかしは「千本松原」と言っていました。江戸時代、参勤交代で薩摩藩が治水工事をしに大勢この地にやってまいりました。過酷な労働を強いられたようで、多くの薩摩義士の命がこの工事で失われていったようです。あまりの難工事のため堤の人柱となったという説話も残っています。
   治水のあしあと



ということで、
なぜか、南九州と地縁の深い場所なのでした。

ちなみに木曾三川とは、「木曽川」、「長良川」、「揖斐川」のことです。
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# by ultra3040 | 2004-10-29 22:29 | 神社放浪記

伊勢二見 「謎のサルタヒコ」


                  
[一] 修験道に見る伝統『梵天作法』



神にささげる御幣であり、神が憑りつく依り代である梵天が、男根の役を帯び、古事記にある宇宙創成に登場する沼矛(ぬほこ)の意味を含んで行われる梵天作法。山中へ入る直前に修法されるこの儀礼は入峰者の擬死から再生におよぶ生命誕生の劇的な一瞬でもある。
日本には古代から農耕文化のなかに、セクシュアルな芸能や儀礼が伝承されているが、この<梵天作法>には、日本の農耕文化に、インド宗教が大胆に変容して組みこまれた、修験道ならではの生命観を見ることができる。
おそらく修験道の儀礼には、こうした古代性がさまざまに反映し、密教や道教がその神話的伝承に意味を与えてきたにちがいない。
いわゆる梵天は、天の沼矛であり、インド宗教の生成の神ブラフマーであり、男根であろう。 (以上 別冊太陽『山の宗教』 久保田展引監修 P66-70参考)




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[ニ]とりとめもなく思うこと



 サルタヒコとは、多分にメタファーとして、『男根』を連想させる人だ。なにも、修験道を引き合いに出さなくても、その容姿(長い鼻)、妻神であるウズメに関する説話、さらに、貝に手を挟まれて溺れて死んだというエピソード。貝はすなわち女陰であり、溺れて死んだとなると、女の人にはまったのね、このひと、みたいな。つまり、色難にあったていう。難しく考えなくても、絶対そうだわ!という気がしてくる。何から何までピッタリくるっていうかんじ。しかもサルタヒコの容貌自体、修験の匂いがプンプンしているし。


 じつは、サルタヒコって“山の民”だった?みたいな。伝承では、海から来た人だったけど、そういえば。フシギ発見!! 海からやって来た人っていうのは、やがて山にいく。海も山も、切っては切り離せないもの。海幸、山幸は、同一人物という気がしてきた、最近。それは、一なるものが分裂した結果なのよ。この世の争いなんて、実は“同じもの”なのに、ちがうと言って争っているだけ。だから、違いなんて、「表と裏」、「極と極」。そりゃあ、違っていて当たり前だけど、よく見たら、つながっていたっていうか、もともと一緒だったみたいな。争っていて、ムダな骨折り損よねーって。でもまぁ、争っていたのはよいけど、やはり、解りあわなきゃっていうか、お互い、より理解を深め合おうっていう、そういうおハナシ。きっと。大黒、恵比寿ってそんな感じがする。ぜんぜん違うかもしんないけど。
 

 でも、この陰と陽が、お互い理解し合おうというのが、実は夫婦の道なのよね。何も争いだけが、人類のすることじゃなくって。愛し合う道があるでないかい!みたいな。灯台本暗しだよ。ホント。いちばん、やらなきゃいけないこと忘れていたみたいな、全く。ながい暗ヤミの世だったよ。なんか、岩の中に閉じ込められていたってかんじ。肝心なこと忘れていたよっていう。だって、お互いのこと忘れていたんだもん。それで、無い、無いって言って、何も無いって。 絶望までしてさぁ。 参ったってカンジ。 お陰で、生命の暗ヤミはマスターしたわ!なんで、人間が争ったり、“いちばん”になりたいって思ったりする、根本がわかったもん。欠けていたのよ。足りないのよ。「ふたり合わせてヤンマー」だから。「君と僕とで、ヤンマー」、よ。「動かす力は、ヤンマージーゼル」よ。そうよ! 動かす力が“男女和合の力”、および“セクシュアリティー”。いわば、エネルギーが交差する場所、交わる場。物と物がぶつかって新たに生まれるエネルギー。かなり重要だわ、このこと。





[三]生命活動の源の地、伊勢



 そこから生成して生まれ出るエネルギー。大地のエネルギー。湧いてくる、地の底から生命欲求が湧き上がってくる、まさしく、そんなかんじがした。なんで、夏至のいわゆる、太陽エネルギーの最もパワフルなときに、あの二つの岩の間から、ふじの真上に、太陽があらわれる場所として、刻印されているのか。わかった気がする。それは、たしかに最大の生命歓喜、生命賛歌しうる場にうってつけだったのであろう。




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[四]むすび



 ここでいうウズというのは、一度はまり込んだらぬけだせなない、ブラックホールのことではないか。入ってはいけないけど、入らねば、そこで体験できる教訓は得られない。
 サルタヒコもウズメも底辺で人間支え、しかも賛歌しているようにみえる。落とされ落ちぶれても、それでも生きるいのちを発信し続ける。しかも、立ち上がるいのちの根源は闇からうまれということ。何も無く追い詰められて、虚無感におそわれるとき、あぁ、ほんとうに、生きたい、いのちとは、かけがえのない、二つとない、大事なものである、という実感を得る。これが、まさに絶対不二の思想といえるのではないか。古代それを、マスターした人々はそれを伝えたかったのだとおもう。ピラミッドしかり、ストーンヘンジしかり。記念碑、モニュメントとして。

 なんだろうね、世界はワンワールドで、問いを発すれば、そのまま答えとして返ってくる、内面を映し出している鏡として私たちに見せてくれている。地球はそのまま、生命体で母親の胎内で遊びまわっている子供という感覚。地球は私たちに私達自身そのものを見せつけ、おしえさとしてくれている。
今、わたしたちは、汚れを体感していて、私達の内部的な膿をあらわしている表現している。それでも、変わることのない生命の輝きは衰えることなくいっそう増すばかり。
絶え間なく生まれ死に循環するエネルギー。寄せては返す波のように、本当はただそれだけのことなのかもしれない。


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# by ultra3040 | 2004-10-24 02:17

欲望の果てに

およそ2年前に「人類は石油の残りの一滴を求めて殺し合いをする」のか?という問いのもとレポートを書きました。2002.11.26に書いた倫理学のレポートの一部です。イラク会戦前夜でした。貧富の格差について考えていました。2年前です。。。

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 人間の所業


 人類は「石油の残りの一滴を求めて殺し合いをする」らしい。アメリカは是が否でもイラクを攻撃したいらしい。理由はもちろんならず者国家を「天に代わっておしおき」するためではない。いま、アメリカ経済は足踏み状態である。アメリカ、ブッシュ政権の本当の目論見は自国の景気回復、さらにはメソポタミアの富の掌握にあると、昨今の新聞等を賑わしている。
 そもそもテロの根本問題に、富の格差が背景にあると言われている。何故、自ら爆弾を背負い死をもって相手に訴えねばならない理由がどこにあるのだろうか。「窮鼠、猫を噛む」という諺があるが、アメリカの正義とはいったい何なのであろう。事態はこれより他ないところまで、追い詰められているのではないのか。
 
 「貧しい国では、資本の成長率が人口増加率になかなか追いついていない。原因はたくさんあるが、たとえば投資可能な余剰資本が、(1)海外投資家に吸い上げられたり、(2)地元のエリートたちの贅沢に費やされてしまったり、(3)あるいは債務の返済や、(4)法外な軍備に消えてしまうのもそのひとつだろう。・・・・そうした地域は人々が豊かになることはなく、人口ばかりが膨れ上がるというパターンにおちいっている。」(メドウス『限界を超えて』茅陽一訳、ダイヤモンド社、47頁)
 「世界のシステムが最も一般的に示す行動パターンは『富むもtのは富みを得、貧しいものは子供を得る』という古い諺に表現されるパターンがあるが、これは、消して偶然に生じる行動ではなく、人口と資本を結びつけるシステムがそうした行動を生むような構造になっているのだ。したがって意図的に構造を変えない限り、その行動様式は今後も続いていくだろう。」(同、47頁)
 また、生活と生存に関する基礎的な資源の決定的な不足という状況に達したとき、『人は、労働によっても必需品がまったく購読できないようなときは、(他人の)生存権を否定する』(マルサス)可能性もやはり、指摘されている[以上加藤尚武、環境倫理と経済学から抜粋]


さらに、森岡正博氏は『生命観を問い直す、エコロジーから脳死まで』(ちくま新書)の中で、現在の危機をひきおこした最大の原因は、私たちの内部にこっそりひそむ、生命の欲望であると語りかけている。
 
「自らの内にひそむ、生命の欲望をかなえてくれるものであれば、たとえそれが生命の原理に反するような技術であったとしても、私たちはそれを受容し、活用しつくそうとしています。機械論・二元論・還元論にもとずく科学技術は、そのこころの隙間に侵入してどんどん増殖します。そして、社会システムは、そういう科学技術が浸透しやすい構造へと徐々に改変されていきます。これが私の言う“共犯関係”なのです。この共犯関係は、現代社会のあらゆるところに姿をあらわします。たとえば、資本主義システムはそれを批判する思想もまたひとつの商品として流通させて、そこから利潤をあげていきます。・・・・・」

資本経済の恩恵を受けている、日本もまた例外ではなく、東南アジアの森林を破壊しているのは、日本人であり、消費と共に多量のゴミまで生んでいる。現地の生活破壊を超えて既に命と人権問題になっている事実を直視すると、我々は現在の生活を根本的に見直し、考え直さなければもはや明日はないものと思われる。


「それは無限の欲望の満足ひたすら希求する人間です。現代人は宗教と道徳から解放され、日一日、純粋な欲望人になりはてていくのです。これが高度に発展した資本主義社会の人間の運命ですが、人間が純粋な欲望人になりはてるとしたら、人間精神の崩壊をしめすものであります」
とするのは、梅原毅氏である。それは宗教より理性に重きをおいた結果であり、デカルトの近代哲学に出発しているという。近代文明を指導したデカルトやベーコンの考え方とは、自然を峻別し自然を客観的に研究する自然科学の知識によって、自然を征服する技術をもとうとする思想だ。しかし人類は、実際のところそれよりずっと以前に。自然の支配を試みていた。農耕牧畜文明を形成したときであるという。
 「植物は動物のために造られ、動物は人間のために造られている。家畜は使用や、食料のために、またその他の補給のために、すなわち衣服やその他のものがそれから獲られるために存在する」(アリストテレス)
 だから自然というものに遠慮しないで人間向きに自然を改造して使えばいいというわけだ。その結果はどうか。巨大な森は伐りとられ、農耕地や牧畜地となりその木材は巨大な宮殿施設や寺院建築、金属加工への燃料となり、やがて森は消滅。あれだけ栄華を誇った世界のおもな文明の跡は現在、砂漠に近い荒涼とした大地がのこされているのみである。文明のたどった末路を見ると、人間は他者(自然)から奪い獲ることしかできない存在であろうか。


 生命の循環と再生


西洋が自然を支配するものと考えてきた一方で日本古来のアニミズムやアイヌにおける生活風習のなかに生命の循環思想があるといわれている。西洋対東洋と一概には言えないようではあるが、ある部分日本の潜在的な部分に残っているものといえるかもしれない。しかしながら多くの現代社会に生きる日本人から失いつつあるものともいえるかもしれない。共に生きるという思想、生命の循環、生命への感謝われわれはは地球という大きないのちに生かされているということ。われわれは忘れている地球という大きな生命の営みがなければ、生きていけないということを。欲望のために地球のすべての生命を食い尽くしても、地獄の果ては、戦争と枯渇した大地しか残らない。
「自分の手ではっきり他のいのちを奪い、それを口にしたことがないということが、ほんとうのいのちのの尊さをわかりにくくしているのだ。殺されていくものが、どんな苦しみ方をしているのか、あるいはどんなにあっさりそのいのちをなげだすか、それを体験すること。ここから自分のいのち、人のいのち、生きもののいのちの尊さにきづかせせてみよう。」(鳥山敏子『いのちに触れる』)
鳥山敏子氏は、小学生に「生きた鶏を殺して食べさせる」という授業を行っているそうである。子供たちは、その後、如何に自分たちがたくさんの生命を奪って生きているのかを実感するとともに、食物に宿る生命の重さを知り、戦争、無意味な殺戮に嫌悪感を抱くようになったというのだ。他の生命を奪って体に取り込むという強烈な自覚が、自らを維持するために捧げられた他の生命への感謝に繋がり、自らの命も、また他の命も慈しむ心が芽生えたのである。

 また、アイヌにおける「イヨマンテ」の風習はまさにそうした生命への感謝に支えられた生命循環の礼儀作法であるといわれている。それは、殺した熊に対して感謝の心を忘れず、熊の遺体を食べ尽くし無駄なく活用するなら、熊は喜んで他界しまたこの世に生まれ変わってくるという思想である。なぜなら熊は自分が人間にとって必要であることを知っており、人間が自分を食べて喜ぶことがまた熊にとっての喜びとなるからである。自らのからだが食べた人間の血や肉となり、再び生かされることこそが熊にとっての喜びなのである。そして人間に食べられた熊はまた再びこの世に生を受け戻ってくる。それはけして人間の犠牲になっているわけではなく、繰り返される生命のの循環であり、富み栄える生命の営みの一部にすぎない。まさに弥栄である。すべての生命は尊く敬われ、感謝し支えあいながら生きている。わたしたちはお互いを必要とし自らもまた必要とされている。自然の中で生きる生命にとっては自他の境はなくすべてが恵みでありすべてが喜びなのでである。競争社会で生きてきた人間にとっては、まことに目から鱗であり、学ぶことがまったくおおい。われわれは、価値観の違いを超えて、ありとあらゆる生命の尊さを感じ入り、民族、宗教の壁を越え、ともに生きる道を模索していきたいと、切に願うのである。
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# by ultra3040 | 2004-10-17 10:32