「大海人と蓋蘇文は同一人物」の証明



大海人と蓋蘇文には多くの共通点がある。まず身体的な特徴が完全に一致する。




そして政治的には終生、反唐に徹していた。思想的に反儒教的で、道教に傾倒していた点も完全に一致する。
 蓋蘇文は高句麗王のを惨殺したり、唐の太宗の使者に対し傲慢だったとあるから、権威を無視する特徴は歴然である。大海人も国王の権威など眼中になかった。天智が倭王として即位した宴の最中に、大海人が長槍を持ち出して、床を突き抜いたために大騒ぎになったという話も残っている。 
 さらに大海人は、山背、古人、斉明、天智らの倭王の死に直接関わっている。大海人は「能天文遁甲」とあるが、天文は占術、そして遁甲は古代の戦争必須の忍術で、隠れたり人に気づかれずに移動するテクニックだから、斉明が毒殺未遂の後遺症で伏せていた朝倉宮に忍術のように忍び込み、とどめを刺すことができたのである。
 「壬申の乱」では、すでに即位した倭王・大友(弘文天皇)に対して公然と反旗を翻し、新羅軍や倭国に来ていた高句麗人を軍事力とするクーデターで、近江朝を崩壊させた。その際、自ら式(ちょく)をとって戦運を占ったと『書記』にあるから、大海人には戦術の知識があった。これらの戦術や遁甲術(忍術)は道教の範疇だから、道教の最高位にある真人の諡号にふさわしいといえよう。
 そして最も注目すべきは、けっして両者が揃って出現しない点で、倭、三国、唐の文献上、どこを探しても、同時に登場することない。蓋蘇文が確実に高句麗もしくは唐にいた時は、大海人は倭国におらず、逆に大海人が確実に倭国にいた時は、蓋蘇文が高句麗にいたと言う記録はない。『書記』によれば天智即位以前、大海人が確実に倭国にいたのは、653、661、664年である。
 642年、蓋蘇文は平壌でクーデターを起こした。
 643年には、翹岐らが、「高句麗の客」に伴われて倭国に亡命し、山背が殺されたが、この年、蓋蘇文は高句麗にいない。
 644年正月、蓋蘇文は新羅にあって、2城を陥落させた。その後、644年のある時点で、蓋蘇文は今度は蘇我一族を滅ぼすために来倭した。
 645年には高句麗の宝蔵王が唐に謝罪の使者を送るが、返礼として高句麗に来た唐国の使者に蓋蘇文は傲慢だったとあるから、蓋蘇文は高句麗にいた。
 647年、使者が傲慢に対応されたことに腹を立てた太宗は、2度目の高句麗討伐を行う。その結果、12月に莫離支・高任武は謝罪のために唐の首都に姿を現す。しかし太宗は謝罪を聞かず、よく648年正月から、3万の将兵を戦艦に乗せて鴨緑江から攻撃した。しかし、翌649年、太宗が死んで、唐の対高句麗戦は一時中断する。この戦いに蓋蘇文は姿を現さない。その間、蓋蘇文は唐を挟撃するため、中央アジア諸国を外交的に回っていたらしい。
 653年、初めて「大海人」が「皇弟」として『書記』に登場する。
 蓋蘇文は647年末に長安に姿を現して以来661年まで『三国史記』には登場しない。662年正月には、蓋蘇文が確実に高句麗にいたことは明らかだ。その証明は『高句麗本記』に、蓋蘇文が唐と平壌郊外の?水という場所で戦い、勝利したとあり、韓国や北朝鮮には、この戦いで奮戦している蓋蘇文の姿が描かれた絵も少なくない。実はこの時、倭人が唐軍の捕虜になっている。
 なぜ高句麗の首都の攻防戦に倭人が出てくるのか?それは前年に「大海人」が中大兄らと征西して半島に向かい、旧百済で倭人と高句麗人の混成軍を指揮して唐軍と戦っていたからである。事実、倭国の半島出兵の目的は「高句麗を救うため」、と『書記』にはっきり書かれている。
 要するに、高句麗の英雄・蓋蘇文倭国の大海人『書記』の上では一人二役を演じていることになり、これはあたかもスパーマンとクラーク・ケント、あるいはジキル博士とハイド氏、あるいは怪傑ゾロとドン・ディエゴのような関係になる。そして『書記』編纂者は、この事実関係を表向きは隠しつつも、実はもろもろのヒントで真実を暗示しているのである。





古代天皇家と日本正史―現人神と万世一系の超秘密 より
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by ultra3040 | 2005-10-15 23:44 | ルーツ
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