忍熊王

忍熊王については、密かに謎と思っていた。
下記において、なんとなく日本武尊とかぶっていると思った。


 ※忍熊王は福井の剣神社にて遭遇
  →忍熊王(都留支日古命?)



草と草薙剣より「両面宿儺」から安吾の仮説の項より抜粋

つまり日本武尊は熊襲兄弟を殺した。
その殺し方は女に変装して安心させておいて刺し殺した。

熊襲タケルは私の名のタケルをとって日本タケルとよびなさいと自分の名を彼(日本武尊)に伝えている。


ところが武振熊は忍熊王をだまして武器をすてさせて殺した。

  〔猪(伊吹山の白猪)と素手で戦って、伊吹山で死ぬ=日本武尊〕



そして両面スクナと忍熊王とはともに武振熊によって殺されている


。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

■ 奈良市押熊町(おしくまちょう) 八幡神社 その2


神功皇后は、京都の宇治に潜む忍熊皇子を、家臣の武内宿禰(たけのうちすくね)と、

和邇(わに)の臣の祖先 
   〔★〕武振熊(たけふるくま)に、忍熊皇子を討つよう命じます。


家臣の武内宿禰は、知恵を絞り、ズルをしまして~ 武器を隠し持ってながら、弓の弦を切り、武器を捨てたふりをして~ 忍熊皇子と和睦を進めます。

忍熊皇子は、これにすっかり騙されちゃいまして・・・近江の逢坂(おうさか)で追いつかれ、瀬田の渡りに沈んで亡くなったそうです。
で、忍熊皇子の部下たちは、近江の狭狭浪(ささなみ)の栗林(くるす)で切られと言われています。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


Vol.1:美浜、敦賀を訪ねて

敦賀はなんと古事記の仲哀天皇の条に角鹿(ツヌガ)として登場している。

仲哀天皇の皇子、品陀和気(ほむだわけ)

が異母兄を  沙沙那美(ささなみ)(琵琶湖)に
追い詰めて滅ぼした後、禊(みそぎ)のために敦賀を訪れた時に、

地元の神、伊奢沙別命、が夢に現れて、

「吾が名を御子の御名に易(か)えまく欲(ほ)し」
と言い、御子がそれに応じたと言う。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


両面宿儺は凶賊か

 〔★武振熊が両面宿儺を退治する。〕
 

『日本書紀』は仁徳天皇六五年、和珥臣の祖・タケフルクマが飛騨国の怪人・宿儺を退治した話を伝える。
「六十五年、飛騨国に一人有り。宿儺と曰ふ。其れ為人、体を一にして両の面有り。面各相背けり。頂合ひて項無し。各手足有り。其れ膝有りて膕踵無し。力多にして軽く捷し。左右に剣を佩きて、四の手に並に弓矢を用ふ。是を以て、皇命に随はず。人民を掠略みて楽とす。是に、和珥臣の祖難波根子武振熊を遣して誅さしむ」
 原文ではわずか八四文字、この話は『日本書紀』にのみあって『古事記』にはない。タケフルクマは仲哀記に「難波根子建振熊命」、神功紀に「和珥臣の祖武振熊」とあり、神功・応神と争う忍熊王を攻めた将軍と伝えられる。タケフルクマの事績として伝えられているのは、忍熊王追討と宿儺退治の二つのみである。

 ただし、『古事記』では忍熊王を近江で入水に追い込んだのはタケフルクマその人とされているが、『日本書紀』ではその役を武内宿禰が果たしたことになっている。
 いわば、『日本書紀』におけるタケフルクマは、忍熊王追討で武内宿禰に譲った分の出番を、宿儺退治で取り戻した形になっているのである。


※〔 〕はわたしの付け足し。

別に 安吾探偵の方法 ですこぶる面白みがあると思った。
じっさい、ひとり二役をやってのけて実際その名を歴史にとどめている人物が姿を現し始めている。
[PR]
by ultra3040 | 2005-10-15 21:27 | ルーツ
<< 「大海人と蓋蘇文は同一人物」の証明 劔神社(剣神社) >>