太陽族 ラ族

 朝鮮半島には、その中央を縦に走る太白山脈があり、その東側には太陽族、即ち太陽神を信じていた太陽信仰族がいて、その西側には熊をトーテムとする信仰を持った部族がいた。特に東側の太陽信仰族は地名に太陽神(=「ラ」)という言葉をよく使ったので、この地域には羅津、羅南、新羅、伽羅等の地名が多く、日本の奈良(ナラ)という地名もこれに属する。これらは全て太陽信仰属の残した地名である。『古事記』、『日本書紀』等に残された神様の名前や現在の日本人の名前にもよく使われる「ヒコ」(彦)のもとの形は「日子」であり、「ヒメ」(姫)のもとの形は「日女」である。その意味は「日の子供」「日の女」であるが、これも太陽信仰族の残した言葉であり、日本の弥生時代前期の信仰トーテムが実は太陽であったのだ。
 ところが、その後、百済を中心として、熊を信仰のトーテムとする渡来人達が半島から押し寄せてきて、太陽信仰族である第一期大和王朝を滅ぼしてしまった。(「ヤマト言葉の語源が語る日本民族の起源」『古代朝鮮と日本』泰流社)

 朴炳植氏によれば、新羅を中心とする第一期ヤマト王朝とは神武から仲哀にいたる王朝であり、百済を中心とする第二期ヤマト王朝こそが、応神王朝だったのである。
紀元三六二年、太陽王朝最後の天皇である仲哀が「クマソ」征伐の途中、謎の死を遂げることによって、第二期ヤマト王朝が「クマソ」の手によって始まることになる。その証拠に、『記・紀」から、神功皇后以降、「クマソ」の名が消えてなくなっている。そして、その代わりに登場するのが「エミシ」なのである。(同右)

 ここで、日本各地に祀られた兵主神(蚩尤)が天之日矛につながる新羅系渡来人が奉ずる神であったと仮定するなら、両面宿儺(私説よれば蚩尤)の討伐者を武振熊(百済系の軍人)としなければならなかった理由は自ずと明らかとなる。古代において、百済と新羅という図式は、同時に畿内王権の一貫する対立抗争の図式でもあった。それが最も顕著に露呈したのは、天智から天武にいたる時代であったと私は思う。その時代の強烈な印象が、まだ生々しく生きていた時代に『記・紀』の基礎資料が編集されはじめていたのである。

『濃尾古代史の謎水と犬と鉄』 尾関章著より 抜粋
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by ultra3040 | 2005-02-04 16:10 | 謎解き古代史
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